10代のころはモトクロスライダーとして活躍したのち‘84年にロードレースに転向。その後の成績が認められ、89年にはカワサキワークスライダーとなる。‘92年にはTTF-1クラスで年間チャンピオンを奪取した。鈴鹿8時間耐久レースには10回出場しているが、‘89年ルマン24時間耐久レースにも出場し見事3位となっている。現在は各地のサーキットでスクールなどのインストラクターを務めている。
10代のころはモトクロスライダーとして活躍したのち‘84年にロードレースに転向。その後の成績が認められ、89年にはカワサキワークスライダーとなる。‘92年にはTTF-1クラスで年間チャンピオンを奪取した。鈴鹿8時間耐久レースには10回出場しているが、‘89年ルマン24時間耐久レースにも出場し見事3位となっている。現在は各地のサーキットでスクールなどのインストラクターを務めている。
18歳でロードレースデビューし、‘93年には全日本ロードレース選手権TTF-1クラスでチャンピオンとなった。2001年にX-Formulaクラスで、‘03年にはJSBクラスチャンピオンに輝く。翌年から世界耐久選手権にSEAT(スズキエンデュランスレーシングチーム)から参戦、ルマン24時間耐久レースの勝者となった。その後同チームから世界耐久にフルエントリー、‘05年、‘06年と連続世界チャンピオンという偉業を達成した。現在はライディングスクールの開催を始めサーキットアドバイザー、全日本ロードレース選手権での解説者などを務めている。
’83年に17歳でロードレースにデビュー。‘87年には21歳の若さながら全日本ロードレース選手権GP500ccクラスにて年間チャンピオンとなり、さらに‘88年、‘89年と全日本GP500ccクラスで3連覇という偉業を成し遂げた。選手引退後はヤマハのmotoGPマシンYZF-M1の開発ライダーを務め、現在はヤマハテクニカルセンターの2輪教習所に指導員として勤務している。
‘87年にレースデビュー、翌年88年国際A級ライダー昇格と同時にHRC契約ライダーとして全日本ロードレースGP500ccクラスに参戦、世界GP500ccライダーとして大活躍した。全日本選手権はGP500、スーパーバイク、JSBの3クラスで4度のチャンピオンに輝き、また鈴鹿8時間耐久レースも‘97年、98年の連覇を含め4度制している。現在はAstemo Honda Dream SI Racingのチーム監督を務めている。
’88年に国際ライダーに昇格後、’89から’91年にかけて全日本ロードレースGP250クラスにおいて3連覇を達成した。そして‘93年からはHRCワークスライダーとして世界GP250㏄クラスに進出し2勝を挙げる。‘96年からはGP500㏄クラスにステップアップ。ワークスマシンNSR500を駆けり、翌’97年には年間ランキング2位となった。現在は鈴鹿サーキットのレーシングスクールSRS-MOTOの校長を務める。
‘84年、当時の全日本ロードレース最高峰クラスTTF-1にてモリワキモンスターを駆けり、国際A級ライダー昇格1年目ながら見事TTF-1チャンピオンに輝いた。これらの活躍で‘86年シーズン途中からは世界GP500ccクラスにホンダNSR500にて参戦する。翌87年からはHRC契約ライダーとしてロスマンズカラーのNSR500を駆けり、世界GPを転戦した。現在はモーターサイクルジャーナリスト、TV解説者などの活動に勤しんでいる。
河崎裕之副会長が、「情熱のロードレースVol.4 1983 WGP最終戦 サンマリノGP」(八重洲出版刊)のインタビューに応じました。
1983年のWGP500は、この年を限りに引退を考えていたケニー・ロバーツと初タイトル獲得を目指すフレディ・スペンサーがシーズンを通してデッドヒートを繰り広げた年としてGP史に刻まれています。
このふたりのアメリカ人ライダーの争いは、ヤマハYZR500とGP復帰5年目を迎えどうしてもタイトルが欲しいホンダNS500との戦いでもありました。
それまでスズキに在先していた河崎副会長は、WGP500でチャンピオンを獲得すべくYZR500の開発ライダーを依頼され1983年はヤマハに移籍しています。
すでに完成していた83年型YZRに乗ったとき、河崎副会長は何を感じたのか。そして、どう造りこんでいこうと考えたのか。「夜中でも考え続けた」と当時の状況を吐露しています。
河崎副会長の自信作は84年型のYZRでした。『ケニー、いいバイクが出来た。もう1年走って欲しい』と説得しましたが、この願いは叶いませんでした。
さらにレーシングライダーと開発ライダーの違い、やりがいにも言及します(写真は校正紙使用のため実際のムックとは一部異なります)。
情熱のロードレースVol.4 (ヤエスメディアムック)
1983 WGP500最終戦 サンマリノGP
発売日:2022年5月31日(火)
定価:1,650円(本体 1,500円)
判型:A4
綴じ:平綴じ
刷色:オールカラー
ページ数:100ページ
発行所:株式会社八重洲出版
Director:川上 滋人
編集人:太田 力也
発行人:酒井 雅康
入手方法:https://www.yaesu-net.co.jp/item/passionate-motorcycle-road-racing-4/
事務局:古谷重治記
みなさんは、決勝開始直前に中止になったレースがあったことをご存知でしょうか? それが約40年前に鈴鹿サーキットで開催された’82日本GP 国際A・B500とスーパー1000でした。特にA・B500は、国内初の4メーカー対決が実現するという前評判で注目を集めていました。ところが、台風が紀伊半島を襲い激しい風雨のためレースができなくなってしまったのです。
レースが中止されたため当時の専門誌も予選の記録はほとんど掲載せず、正式な予選結果表やスターティング・グリッド表も残す必要が無かったため散逸して、いつしかレース自体が忘れ去られていました。
ところがこの秋、鈴鹿サーキットの施設内で、この時のスターティング・グリッド表が発見されたのです。ロードレース界にとっては、古墳発見のような、超一級の歴史資料であることは間違いありません。
このスターティング・グリッド表には、当クラブの杉本五十洋会長や、河崎裕之副会長、清原明彦役員、水谷 勝役員が名を連ねています。さっそくみなさんにお話を伺うと、よほど印象に残っていたのでしょう、昨日のことように当時の様子や心境を語ってくれました。
そこで、それらの話をまとめ、10月28日に発売された「情熱のロードレース Vol.2 1987年 鈴鹿8耐」(八重洲出版刊)というムックに「幻の4ワークス対決 そして、もうひとつの情熱のロードレース」というタイトルで寄稿させていただきました。
執筆には、木の実レーシングの新田 茂さんや、1980年時代のライダーイラストでは第一人者だった村井 真さんなどにも応援を頼み、協力していただきました。
当日、雨に打たれながら鈴鹿サーキットにいた方も、レースファンとして結果を楽しみにしていたひとも、さらには今のレースに関わっている方も、『あの時あんなことがあったんだ』と、考えさせられる仕上がりになりました。
ちなみに当クラブの川島賢三郎事務局長は、 当日午前中に行われた国際A・B125の決勝に、豪雨の中カッパ無しで出場しています。また、このホームページを作ってくれている平野知子さんも前日に行われたノービス125ccクラスの雨の決勝を走っていました。
みなさんがこの「スターティング・グリッド表」を見て、何を思い出し、何を語り始めるか、新たな論証や、研究、考察が出てくることも楽しみです。
タイトル:情熱のロードレース Vol.2 1987年 鈴鹿8耐
発売日:2021年10月28日(木)
発行形態:ムック
価格:1,485円(本体 1,350円)
判型:A4
綴じ:平綴じ
ページ数:100P
刷色4色: 94P
1色: 6P
発行所:八重洲出版
編集長:川上 滋人
編集人:五十嵐重明
発行人:酒井 雅康
入手方法:https://www.yaesu-net.co.jp/item/passionate-motorcycle-road-racing-2/
事務局:古谷重治記