バイクの日、オートバイ文化奉祝祭

バイクに感謝、そして交通安全祈願
左から、大倉正之助さん、水谷 勝さん、柘植英満禰宣、片山敬済さん、北川圭一さん。平成4年8月19日、箱根神社にて

「バイクに感謝、そして交通安全祈願のために祈りましょう」と提唱したのが、能楽師の大倉正之助さんです。大倉さんは大鼓(おおつづみ)奏者で重要無形文化財総合認定保持者です。そんな大倉さんは大のバイク好き、国内はもとより世界各国にバイク仲間がいます。大倉さんの呼びかけに、やはりバイク好きの文化人、学者などが呼応しました。

こうして実現したのが8月19日のバイクの日に箱根神社で行なわれた「オートバイ文化奉祝祭(ほうしゅくさい)・交通安全感謝祭」です。大倉さんは神前で大鼓を打ち、仲間とともに奏でた演奏を奉納しました。

参加者には、レジェンドライダースクラブの水谷勝役員、北川圭一会員、そして片山敬済さんも加わり、清めの比礼(ひれ)をまとい、本殿に昇殿してお祓(はら)いを受け、玉串奉奠(たまぐしほうてん)を行いました。

御神前でのお参り後は、神楽殿(かぐらでん)前に駐車させたバイクにお祓(はら)いを受け、神馬(しんめ)に見立てたそれぞれのバイクにまたがり、御旅所(おたびじょ)となったライダーズパラダイス南箱根までの約5kmを乗馬(車)しました。

神事を無事終えた一行は、ライダーズパラダイス南箱根で奉祝祭を見学に来たライダーたちと交流、夕方からはオートバイ文化人倶楽部発足記念ライブが開催されました。

オートバイ文化奉祝祭を司った箱根神社
神楽殿前にならべたバイクとともに記念撮影。後列中央の白の着物姿が小澤修二宮司

オートバイ文化奉祝祭を司った箱根神社の小澤修二宮司

「箱根道はいにしえより交通の難所でした。時の武将が道中安全祈願にいらした記録が残っています」。源頼朝や徳川家康も参拝に訪れたそうです。そんな話を聞くとライダーが箱根神社を詣出ることは自然の導きだったのかもしれないという気になります。宮司も若かりし頃はメグロに憧れ自動二輪免許を取得、実際にはラビット90でよく走ったそうです。「みなさんの声はしっかりと神様にお届けしました」。

箱根神社からライダーズパラダイス南箱根までのオートバイ神馬巡行ツーリングは「伊豆スカ事故ゼロ小隊」のKAZU中西さんたちが先達しました。

「伊豆スカイラインはオートバイ事故が増え、二輪通行禁止が謳われたことがありました。『禁止するのではなく、ライダーに対して安全の呼びかけや指導で事故を減らしましょう』と隊を結成しました。警察や地域と連携し活動した結果、事故が減少。通行禁止をまのがれることが出来ました」

奉祝祭にはオートバイ・ツーリング・クラブ、二輪睦八咫烏(やたがらす)事務局の竹花眞一さんも参加しました。

「毎年ゴールデン・ウィークに、和歌山県の熊野本宮詣ツーリングを実施しています。クラブ名の八咫烏は、神武天皇の前に降り立ち、熊野本宮から奈良の橿原(かしはら)まで先導したと伝わっており、道中安全を見守る象徴として使わせていただきました」。クラブ名の使用は熊野本宮から正式に許可を得たもの。大倉正之助さんはこのクラブの会長も引き継いでいます。

水谷 勝役員

「大倉さんとは10年以上のお付き合いになります。毎年ゴールデン・ウィークには大倉さんはじめ二輪睦八咫烏のみなさんと熊野本宮詣ツーリングに参加しています。今年も祈祷させていただきました」

片山敬済さん

「平成5年の皇居事始に、大倉さんのお声がけで双輪舞を舞ったことがあります。これがきっかけとなりいくつかの神社で舞を奉納させていただきました。それ以前からの付き合いなので、ずいぶん長いお付き合いをさせていただいています」

北川圭一会員

「大倉さんとの出会いは鈴鹿8時間耐久オートバイレースの公式プログラムでの対談です。KENZ! で全日本を走っていた頃です。それから、よくツーリングに誘っていただき一緒に走っています」

快晴の箱根神社
芦ノ湖に鳥居を構えた箱根神社。森に隠れる本殿で、バイクに感謝するとともに交通安全祈願が行なわれました

当日の天気は快晴、箱根から澄んだ空気の向こうに富士山を眺めることができました。神事に参加したライダーたちの顔がすがすがしさに満ちています。大倉さんのオートバイ文化を作る催しは、当日発足した「オートバイ文化人倶楽部」の事務局主催により来年もバイクの日に箱根神社で行なわれるそうです。

事務局:古谷重治記

レジェンドライダー*塚本昭一

10代のころはモトクロスライダーとして活躍したのち‘84年にロードレースに転向。その後の成績が認められ、89年にはカワサキワークスライダーとなる。‘92年にはTTF-1クラスで年間チャンピオンを奪取した。鈴鹿8時間耐久レースには10回出場しているが、‘89年ルマン24時間耐久レースにも出場し見事3位となっている。現在は各地のサーキットでスクールなどのインストラクターを務めている。

塚本昭一
写真出展:http://kssr.ai-n.jp/custom.html
塚本昭一(鈴鹿8耐)
写真出展: https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10204526137660395&set=t.100002394759026&type=3

 

レジェンドライダー*北川圭一

18歳でロードレースデビューし、‘93年には全日本ロードレース選手権TTF-1クラスでチャンピオンとなった。2001年にX-Formulaクラスで、‘03年にはJSBクラスチャンピオンに輝く。翌年から世界耐久選手権にSEAT(スズキエンデュランスレーシングチーム)から参戦、ルマン24時間耐久レースの勝者となった。その後同チームから世界耐久にフルエントリー、‘05年、‘06年と連続世界チャンピオンという偉業を達成した。現在はライディングスクールの開催を始めサーキットアドバイザー、全日本ロードレース選手権での解説者などを務めている。

北川圭一
写真提供:㈱ケンツ
北川圭一(ボルドール24h耐久)
写真出展:https://www.k1-kitagawa.com/photo.html

 

レジェンドライダー*藤原儀彦

’83年に17歳でロードレースにデビュー。‘87年には21歳の若さながら全日本ロードレース選手権GP500ccクラスにて年間チャンピオンとなり、さらに‘88年、‘89年と全日本GP500ccクラスで3連覇という偉業を成し遂げた。選手引退後はヤマハのmotoGPマシンYZF-M1の開発ライダーを務め、現在はヤマハテクニカルセンターの2輪教習所に指導員として勤務している。

写真出展:https://race.yamaha-motor.co.jp/sp/suzuka8h/2015/yamahateam/14.php
藤原儀彦(1989年日本GP)
写真出展: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%84%80%E5%BD%A6#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Norihiko_Fujiwara_1989_Japanese_GP.jpg

 

レジェンドライダー*伊藤真一

‘87年にレースデビュー、翌年88年国際A級ライダー昇格と同時にHRC契約ライダーとして全日本ロードレースGP500ccクラスに参戦、世界GP500ccライダーとして大活躍した。全日本選手権はGP500、スーパーバイク、JSBの3クラスで4度のチャンピオンに輝き、また鈴鹿8時間耐久レースも‘97年、98年の連覇を含め4度制している。現在はAstemo Honda Dream SI Racingのチーム監督を務めている。

伊藤真一
写真出展:https://www.as-web.jp/bike/481306/attachment/8h180706025h
伊藤真一(JSB1000)
写真出展:https://www.honda.co.jp/JRR/race2006/rd05/photo/index3.html

レジェンドライダー*岡田忠之

’88年に国際ライダーに昇格後、’89から’91年にかけて全日本ロードレースGP250クラスにおいて3連覇を達成した。そして‘93年からはHRCワークスライダーとして世界GP250㏄クラスに進出し2勝を挙げる。‘96年からはGP500㏄クラスにステップアップ。ワークスマシンNSR500を駆けり、翌’97年には年間ランキング2位となった。現在は鈴鹿サーキットのレーシングスクールSRS-MOTOの校長を務める。

岡田忠之
写真出展:https://ohana5.co.jp/alliance_partner/tady-okada
岡田忠之+NSR500
写真出展: https://www.facebook.com/1602417333370668/posts/2671818666430524/

レジェンドライダー*八代俊二

‘84年、当時の全日本ロードレース最高峰クラスTTF-1にてモリワキモンスターを駆けり、国際A級ライダー昇格1年目ながら見事TTF-1チャンピオンに輝いた。これらの活躍で‘86年シーズン途中からは世界GP500ccクラスにホンダNSR500にて参戦する。翌87年からはHRC契約ライダーとしてロスマンズカラーのNSR500を駆けり、世界GPを転戦した。現在はモーターサイクルジャーナリスト、TV解説者などの活動に勤しんでいる。

八代俊二
写真出展:https://www.autoby.jp/_users/16924237

 

八代俊二+ホンダNSR500
写真出展:https://twitter.com/RacersSugo/status/1300370740454199297/photo/1

 

河崎裕之副会長、「情熱のロードレース」誌のインタビューに応じる

河崎裕之副会長が、「情熱のロードレースVol.4 1983 WGP最終戦 サンマリノGP」(八重洲出版刊)のインタビューに応じました。

情熱のロードレースVol.4 1983 WGP最終戦 サンマリノGP

1983年のWGP500は、この年を限りに引退を考えていたケニー・ロバーツと初タイトル獲得を目指すフレディ・スペンサーがシーズンを通してデッドヒートを繰り広げた年としてGP史に刻まれています。

このふたりのアメリカ人ライダーの争いは、ヤマハYZR500とGP復帰5年目を迎えどうしてもタイトルが欲しいホンダNS500との戦いでもありました。

それまでスズキに在先していた河崎副会長は、WGP500でチャンピオンを獲得すべくYZR500の開発ライダーを依頼され1983年はヤマハに移籍しています。

すでに完成していた83年型YZRに乗ったとき、河崎副会長は何を感じたのか。そして、どう造りこんでいこうと考えたのか。「夜中でも考え続けた」と当時の状況を吐露しています。

河崎副会長の自信作は84年型のYZRでした。『ケニー、いいバイクが出来た。もう1年走って欲しい』と説得しましたが、この願いは叶いませんでした。

さらにレーシングライダーと開発ライダーの違い、やりがいにも言及します(写真は校正紙使用のため実際のムックとは一部異なります)。

情熱のロードレースVol.4 (ヤエスメディアムック)
1983 WGP500最終戦 サンマリノGP
発売日:2022年5月31日(火)
定価:1,650円(本体 1,500円)
判型:A4
綴じ:平綴じ
刷色:オールカラー
ページ数:100ページ
発行所:株式会社八重洲出版
Director:川上 滋人
編集人:太田 力也
発行人:酒井 雅康

入手方法:https://www.yaesu-net.co.jp/item/passionate-motorcycle-road-racing-4/

事務局:古谷重治記

東京モーターサイクルショーMFJブースに殿堂者のレプリカ・クリスタルレリーフ

本日(2022年3月25日)から始まった「第49回 東京モーターサイクルショー」(開催日:3月25-27日 東京ビッグサイト)のMFJブース(西3・4ホール 4F)に、昨年の12月に殿堂入りした久保和夫氏、鈴木忠男氏、山本 隆氏、吉村太一氏のパネル展示と美しいレプリカ・クリスタルレリーフが展示されました。

レプリカ・クリスタルレリーフ
展示されたレプリカ・クリスタルレリーフ。左から、久保和夫氏、鈴木忠男氏、山本 隆氏、吉村太一氏に贈られたものです。

各氏の顕彰理由は以下のとおりです。

久保和夫氏

スズキファクトリーライダーとして、1964年の第1 回モトクロスグランプリにおいて125ccと250cc クラスのダブルタイトルを獲得。 翌65 年には、日本人として初めてモトクロス世界選手権に出場し、その道を切り開かれました。その後、チューナーとしても活動の場を広げ、「チームSRS クボ」を率いて、多くのライダーを育成するなど競技の普及振興に寄与されました。

鈴木忠男氏

ヤマハのファクトリーライダーとして、1969 年全日本モトクロス選手権250cc クラスでチャンピオンを獲得されました。その後、「SP 忠男レーシング」を設立され、多くのロードレースライダーを育成し、世界トップレベルの選手を数多く輩出するなど競技の普及振興に寄与されました。

山本 隆氏

カワサキファクトリーライダーとして、全日本モトクロス選手権で、1967 年に90cc と250ccクラス、翌68 年に250cc クラス、さらに69 年は再び90cc クラスで、計4 度のチャンピオンを獲得されました。その後は、トライアル競技に転向され、引退後は長きにわたってMFJ トライアル委員長を務められ、競技の普及振興に寄与されました。

吉村太一氏

スズキファクトリーライダーとして、1967 年に全日本モトクロス選手権125ccクラスでチャンピオン獲得、1970 年には、125cc 250cc のダブルタイトルを獲得されました。また、その後、ホンダファクトリーライダーとしてもご活躍されました。「マウンテンライダース」を率いて、多くの若手ライダーを育成し、全日本チャンピオンも数多く輩出されました。さらに「アールエスタイチ」を設立され、数多くのライダーをサポートしてレース活動を支援するなど、競技の普及振興にも寄与されました。

MFJブース
MFJブースは、ホンダ、ハーレー、BMW、トライアンフなどのブースがある西3・4ホール(4F)です。今回のMFJブースはレーシングマシンの展示も充実しています。期間中は、混雑が予想されるので見落としにご注意ください。

「MFJ モーターサイクルスポーツ殿堂」は、日本のモーターサイクルスポーツの歴史を後世に伝え、輝かしい実績のあった功労者ならびに選手を顕彰するため、2018 年度に設立されたものです。これまでの 殿堂顕彰は、2018 年度顕彰:【ライダー部門】伊藤光夫氏 / 高橋国光氏、2019 年度顕彰:【技術・指導者部門】本田宗一郎氏 / 吉村秀雄氏です。

事務局:古谷重治記

高橋国光さん、逝去

SUPER GT500に参戦するチームクニミツの高橋国光さんが、本日(3月16日)亡くなりました。82歳でした。

少年期は健康優良児の高橋さんでしたが、ここ数年は体調が思わしくない日があり入退院を繰り返していました。年明けにも入院し、退院して療養していましたが食欲が無く体力が落ちていたそうです。

高橋さんは、浅間(群馬県・長野県)で開催された第1回、第2回のモーターサイクルクラブマンレースでの成績が認められホンダ・ワークスに入り、1961年の西ドイツGP250ccクラスにホンダRC162で出場し優勝しました。これが2輪世界グランプリでの日本人初優勝でした。

1966年からは4輪レースに出場、1999年まで現役を続け、その後も1992年に立ち上げたチームクニミツでSUPER GTに参戦を続けていました。チームクニミツは2018年、2020年のSUPER GT500クラスのチャンピオン・チームです。

日本の近代モータースポーツの第一人者であった高橋さんは、早くから欧米のモータリーゼーションの発達やモータースポーツ文化に触れ、日本にもモータースポーツ文化を根付かせるために長年にわたり尽力されていました。

MFJレジェンドライダースクラブの活動にもご理解とご協力をいただき、名誉会員にもなっていただきました。温和でとてもやさしい人柄で、いつも明るく語りかけてくれていました。

高橋国光(たかはし くにみつ)

1940年 S15年1月29日 東京都小金井市 生まれ 享年82歳

<主な戦歴>

1958 第1回モーターサイクルクラブマンレース大会 350ccクラス BSA 優勝
1959 第2回モーターサイクルクラブマンレース大会 500ccクラス BSA 優勝
第3回全日本オートバイ耐久ロードレース 耐久500ccクラス BSA 優勝
1961 西ドイツGP 250ccクラス ホンダRC162 優勝
1962 マン島TTレース 125ccクラス リタイア
1966 第3回日本グランプリ GTレース フェアレディ 優勝
1967 第4回日本グランプリ GPレース ニッサンR380AⅡ 2位
1995 ル・マン24時間 ホンダNSX 8位(クラス優勝)

<主な表章>

2002 日本自動車殿堂
2013 ル・マン24時間 ホール・オブ・フェイム
2018 MFJモーターサイクルスポーツ殿堂
2020 スポーツ功労者顕彰

事務局:古谷重治記